油女シノが初めてその子供と顔を合わせたのはアカデミーの最終学年。
同じクラスになってからだった。
第一印象は「騒がしい子供」。
年齢は同じ筈なのに、何故か年下に見えてしまう幼い容姿。
ころころとよくかわる表情。
ぎゃあぎゃあと騒がしく、悪戯が大好きでどんなに叱られても少しも反省しない。
これから忍者になろうという自覚など全く見られない。
それなりに優等生っぽくしている自分とは正反対の位置にいる子供。
そんな子供―うずまきナルトに対して、始めの内は全く関心を持っていなかった。
ある休日。
シノは里の外れにある森の中を歩いていた。
深い理由はない。
気が向いたので普段は踏み込まない森を探索してみようと思っただけだ。
同世代の子供達と違い、シノは遊び友達と呼べるような友達がいない。
大抵の人間はシノを気味悪がっている。
シノを、ではなく、正確には「油女家の人間を」だ。
特殊な能力ゆえにそれは仕方のない事かも知れない。
クラスメイト達も例外ではない。
女子からの人気はそれなりにあるらしいのだが、シノにとってそれらはどうでもいい事だった。
友達を必要としていないから、別にいなくても構わない。
集団で騒ぐのは好きではなかった。
休日を1人で過ごすのはシノにとってはいつもの事だ。
静かな場所で読書にふけるも良し。
蟲を操る練習をするも良し。
1人の方が気楽で良かった。
しばらく歩いて行くと、人の気配がした。
どうやら相手はこちらに気付いていないようだ。
なるべく気配を殺して近付くと、相手の姿が見えて来た。
その人物は、大きな木の根元に寝転がっている。
特徴のある金髪。今は閉じられているその瞳の色は、海のような群青。
「うずまきナルト……」
シノは口の中で小さくつぶやいた。
クラスで1番の落ちこぼれ。
サスケにドベだウスラトンカチだと馬鹿にされては本気で怒り、将来は火影になると公言してはばからない身の程知らずな子供。
馬鹿で元気で、単純な性格の子供。
シノはナルトに対してその程度の認識しか持っていない。
同じクラスにはいるものの、まともに会話すらした事がなかった。
別に話をしたいとも思わないし、親しくなりたいと思った事もない。
もしかしたらナルトの方もシノの事なんて知らないかもしれない。
もちろんそれでも全然構わない。
そのくらい、シノにとってナルトはどうでもいい存在だからだ。
「昼寝……か?」
シノが近付いても目覚める気配はなかった。
忍者を目指す人間が人の気配に気付けないなんて、やっぱり落ちこぼれだな。
半ば呆れたようにナルトを見下ろして、唖然とした。
白い頬には何故か線のような痣がもともと3本ついているのだが、それ以外にも、赤紫の痣。
子供らしいほんのりピンクの唇の端に、明らかに殴られたような痣。
肌理の細かい白い肌を染める、痛々しい色。
服も、まるで地面を転がったように泥だらけだ。所々、血が付着している。
悪戯が過ぎて叱られるにしても、ここまで酷い扱いをする人間がいるとは思えない。
いじめられたか、殴り合いの喧嘩でもしたか。
しかし、おそらくどちらも違うだろうと思った。
ナルトが受けているのは、理不尽な迫害に他ならない。
以前クラスの連中が話しているのを聞いた事がある。
彼らの親はナルトを疎んでいる。
子供達に理由も教えず、ただナルトとは関わるなと教え込む。
里の人間のほとんどがナルトを疎んでいるらしかった。
畏怖する者。憎悪の眼差しで睨む者。存在そのものを拒絶する者。
それは悪戯が過ぎるだけの子供に向けられるような感情ではない。
どうしてナルトがここまで里の人間に嫌われているのか、シノにはわからない。
大人はみな揃ってその理由をひた隠しにする。
しかし明らかに迫害を受けたらしい姿を初めて見て、これまでのナルトに対する印象は大幅に変わった。
同時に、沢山の疑問が浮かぶ。
里の人間がここまでナルトを疎む理由は何なのか。
そしてナルトは、迫害と言っても過言ではない扱いを受けているのにどうしてあんなに元気でいられるのか。
ナルトには両親がいないらしい。それは珍しい事ではない。
12年前の悪夢。
九尾と呼ばれる妖狐によってもたらされた凄惨な悲劇。それによって家族を失った人間は大勢いる。ナルトもその1人なのだと思っていた。
それならば、里の人間にとってナルトは同じ被害者ではないのか。
同情こそすれ、迫害するとはどういう事なのか。
「う〜……ん」
じっと考えていると、ナルトが目を覚ました。
シノの存在には気付かず、大きく伸びをする。
「……ナルト」
「誰!?お前……シノ?」
声をかけられてようやく気付いたナルトは、大きな目を丸くしてシノを見つめる。
どうやらシノの事は知っているらしい。
シノは何も言わずにナルトの前にしゃがみ込み、痣になった唇の端に指で触れた。
「あ、こ、これはっ、木から落っこちちゃったってばよ」
ナルトはびくっと肩をすくませた後、焦ったような笑みを浮かべて目を逸らす。
しかし、逸らされた視線が、痣の原因は木から落ちたのではないと語っていた。
「……話せない事か?」
「な、何言ってるってばよ」
「どうやってついた傷かなんて、見ればわかる」
「シノ……」
「話せないなら話さなくても構わない」
「……ってばよ」
うつむいたナルトは、消えるような小さな声で何かつぶやく。
「?」
はっきりと聞き取れず、シノは首を傾げた。
「聞いたら、きっとシノが嫌な目に遭うからさ」
「嫌な目……?」
「ほ、ほら、俺ってば里の皆に嫌われてっからさ!俺なんか相手にしたらシノまでいじめられるってばよ!」
ナルトは元気にそう言って立ち上がる。
言外に、自分とは関わるなと言われているような気がした。
同じく立ち上がったシノの胸の前で、ふわふわの金髪が揺れる。
疑問は深まる。
こんな小さな子供を、何故。
確かに悪戯が過ぎる事は多々ある。
だがそれはあくまでも悪戯の域を出てはいない。
他の子供たちだってするような悪戯ばかりだ。
怒りを通り越して呆れる事はあっても、こんな暴力を振るうのはおかしい。
ナルト本人は自分がこのような仕打ちを受ける理由を知っているような口ぶりだ。
知っているからこそ甘んじて受け止めているのか。
「俺の事なんか気にしなくていいってばよ。俺、怪我とかしてもすぐに治るしさ」
ナルトは困ったように笑う。
こんなナルトを見るのは初めてだった。
シノの知っているナルトはいつだって屈託なく笑っていて。
サスケにドベだのウスラトンカチだのと言われて本気で怒って。
どんなに担任のイルカに怒られても懲りずに悪戯ばかりしまくる。
元気で無邪気で、悪戯好きな馬鹿な子供。
そんなナルトしか知らない。
こんなナルトは知らない。
知らなかった。
「じゃあ俺、帰るからっ」
シノが考え込んでいる間にナルトはそう言い残してさっさと帰って行ってしまった。
いつもと変わらない筈の元気なその姿が、何故か痛々しいと思った。
シノはあれから自宅に帰って父親にナルトの事を訊いた。
しかし、口を濁して教えてはくれなかった。
他の大人たちも同じだ。
誰に訊いても返ってくるのは「子供は知らなくていい」という言葉。
そして次に返ってくるのが「ナルトには関わるな」という言葉だった。
だが頭ごなしに“関わるな”とだけ言われても納得できる筈がない。
あれだけナルトを疎むのには、何か大きな理由があるに違いない。
シノは、里の人間たちが疎んでいるからという理由だけで、本当の理由も知らずにナルトを疎むような馬鹿な子供ではなかった。
ナルトをいじめている連中の親は皆が皆ナルトを疎んでいる。そしてそれを子供にも植え付けている。
本当の理由など知らせずに。
そして子供たちは、本当の理由など知ろうともせずに親と同じくナルトを嫌う。
知りたいと思ったのは、嫌いになる理由が欲しいからではない。
何故知りたいのか自分でもよくわからない。
ただの好奇心かも知れない。
それでも、ただ、知りたいと思った。
これまで全く興味のなかったナルトの事なのに、今はナルトの事ばかり考えていた。
翌日。
ナルトはいつも通り元気にアカデミーに姿を現した。
昨日の事など微塵も感じさせない、いつも通りの元気で騒がしい姿を見て、シノはやはりどこか痛々しさを感じた。
ただの馬鹿な子供だと思っていたが、どうやらその認識は大いに間違っていたらしい。
あの騒がしく元気な姿は、他人を欺き自分を守るためのもの。
本来のナルトは、誰よりも繊細で傷つきやすい心の持ち主なのだろう。
しかし、それに気付いている人間はいるのだろうか。
育ての親にあたる三代目火影や、いつも彼を気にかけている担任のイルカは気付いているだろう。
それ以外で気付いているのは。
自分だけかも知れない、とシノは思った。
その時ふと浮かんだ感情は、優越感にも似たもので。
それはシノを少しだけ戸惑わせた。
授業が終わると、他の生徒同様ナルトもすぐにアカデミーを後にした。
だが真っ直ぐ帰る気はないようで、また里の外れの森に向かう。
シノが尾行している事にも気付かずに。
果たして、シノが森の奥に辿り着くとやはりナルトはそこにいた。
この前のように大きな木の根元に寝転がっている。
そしてシノが近付くと。
「シノ?どうしたんだ?」
起きていたのか、今日はすぐにシノに気付いて起き上がった。
「今日は、大丈夫なんだな」
自分よりも一回り小さな体を素早く観察する。
今日はどこもおかしな所はないようだ。
「いつもあんな目に遭ってる訳じゃないってばよ……」
「誰にやられた?どうしてあんな目に遭わされる?」
「シノ?」
ナルトはどうしてシノがそんな事を訊くのか理解できない様子だ。
怪訝そうに眉を寄せ、遥か上にあるシノの顔を見つめる。
シノは何も言わず、ナルトの隣りに腰を下ろした。
いくらか目線が近付く。
「知りたいから、訊いただけだ」
「……どうして知りたいんだよ?知っても何もいい事ないじゃんか」
「良い悪いは関係ない」
「知らないほうがいい事もあるってばよ」
ナルトはそう言って口を尖らせた。
おそらく、そんな事を訊かれたのは初めてなのだろう。
口では突っぱねてみても、青い瞳が戸惑いに揺れているのがわかった。
シノはその様子を見て、微かに表情を和らげる。
「あ、今笑っただろ。ソコ、笑うとこじゃないってばよ!」
「!」
ナルトの言葉に、シノはサングラスの奥の目を見開いた。
無口で無表情なのに加え、襟の高い服とサングラスのせいでシノの表情の変化に気付く事ができる人間は全くいなかった。
そのシノのわずかな表情の変化にナルトが気付くとは。
「どうして俺の事なんか気にするんだ?」
「気になるものは仕方ない」
「シノってば、変な奴」
「お前ほどじゃない」
「無口だとばっか思ってたけど意外としゃべるし」
「しゃべるのが嫌いな訳じゃない」
「やっぱり変わってるってばよ。でも……」
「でも?」
「何か嬉しいや。今まで俺の事を気にかけてくれたのって、じっちゃんとイルカ先生だけだったからさ」
ナルトはそう言って、心底嬉しそうににぱっと笑った。
いつも見せる、ただ元気なだけの笑顔とは違う。
見ているこっちまで微笑んでしまうような、眩しい笑み。
「で、誰にやられた?」
シノは再びナルトに訊く。
「だからそれは言えないってばよ……」
ナルトは気まずそうにうつむいた。
どうしても言えない事らしい。
「そうか。それなら仕方ない……」
シノはうなずくと、右手をすっと上に挙げた。
人差し指を立て、意識を集中する。
「何してるんだ?」
「……見ていろ」
ナルトが訊くが、シノは答えずにそれだけ言った。
しばらくして、その人差し指に蝶が飛んで来てとまる。
「すげー。シノの能力?」
「ああ。まだそんなに上手くは操れない」
「でもすげーよ!カッコイイってばよ」
ナルトは興奮したようにシノの指先にとまった蝶を見る。
シノは少々面食らっていた。
気持ち悪いとか、気味悪いと言われる事の方が多いこの能力を、素直に凄いと言ったのはナルトが初めてだったからだ。
益々、ナルトに興味が湧く。
「それで?このちょうちょをどうするんだ?」
「指を出せ」
「へ?」
シノの言葉に、ナルトはきょとんとした顔になった。
ナルトが動かないので、シノは空いている手でナルトの手を取り、その指に蝶をとまらせる。
「俺に言えない事を、この蝶に話せ。それなら誰も罰を受ける事はない」
シノはそう言って立ち上がった。
ナルトは相変らずきょとんとした顔でシノを見上げる。
まだわかっていないらしい。
「その蝶が、お前の話を聞いてくれる」
シノはそう言って、ナルトに背を向けた。
ナルトが話すかどうかはわからないが、少ない確率に賭けてみるつもりでいた。
まだきょとんとしているナルトを残したまま、シノはその場を後にした。
夜。
シノの部屋の中を、蝶が1匹飛んでいた。
『俺ってば、器なんだってさ』
『四代目火影が、生まれたばっかの俺の体に九尾狐を封印したんだってばよ』
蝶の意識から聞き取れたのはそんな言葉。
しかし、それだけで充分だった。
ナルトが里の人間たちから忌み嫌われている理由は、わかりすぎるくらいにわかってしまったから。
里の人間たちはみな勘違いしている。
ナルトは何も悪くない。
九尾を封印するための器にされただけ。
人柱。人身御供。一番の被害者はナルトでなければならないのに。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い……か」
蝶を窓の外に逃がしながら、シノは重い口調でつぶやいた。
坊主が憎いから、坊主が着ている袈裟をも憎いと思う。そういう諺があるが、それと同じだと思った。
九尾が憎いから、その器であるナルトをも憎み、悲しみや怒り、憎しみをぶつけているのだ。
そして、わかっていてナルトはそれを受け止めている。
あんな理不尽な仕打ちをされても、自分は器だから仕方ないと諦めている。
与えられてきたのは自分に対する負の感情ばかり。
だからといって自分が誰かに負の感情を向ける事は許されず、存在そのものを否定される。
無謀だとばかり思っていた「火影になって里の皆に自分を認めさせる!」というナルトの夢には、そういった背景があるのだろう。
自分に向けられる負の感情に負けない為には、強くなるしかない。
馬鹿だ落ちこぼれだと言われようと、ナルトの進む道はそれしかないのだ。
「っ……」
何故だか、目が熱くなった。
たかだか12歳の子供が背負うには過酷すぎる運命。
それをナルトは生まれた時から背負い、それでも純粋さを失う事無く真っ直ぐ生きている。
ただの馬鹿な子供だと認識していた自分の方が馬鹿に思えた。
「ナルト……」
消えるような声でつぶやく。
何かしてやりたい。
力になってやりたい。
支えになってやりたい。
そんな思いは、施しではなく純粋な感情で。
ただ純粋に、ナルトのために何かしたいと思った。
ナルトがそれを知ったらそんな必要はないと言うのだろうけど。
だからナルトに言うつもりはないのだけど。
ただ。
ナルトにとって自分が必要な存在になれればいいと。
誰かに頼りたくなった時、それが自分であればいいと。
ひたすらそれだけを考える。
その感情は、何かに凄く似ていて。
それに気付いたシノは、薄っすらと笑みを浮かべた。
ああそうか。
この感情はまさしく。
自分はナルトに恋をしたのかも知れないと。
自覚したシノはまだ笑みを浮かべていた。
終。